真田左衛門佐信繁
真田昌幸の次男。母は山手殿。
姉は村松殿、兄は信之。弟に信勝、昌親。
妹に清陽院、清寿院、鎌原重春室、趙州院、清光院、於楽。
幼名は「弁(弁丸)」。輩行名は「源次郎」。
長じて、通称名を「左衛門佐」。諱を「信繁」。
生年は、享年を四十九歳とする説から逆算して永禄10年(1567年)とされている。
別に享年を四十六歳とする説があり、それに基づくと元亀元年(1570年)となる。
また、二男・大八(片倉守信)を家祖とする仙台真田家に残る記録に寄れば、誕生日は元亀元年2月2日(1570年3月8日)であるという。
主家であった武田家の滅亡後、上杉家へ人質として送られる.
後、豊臣秀吉の人質として大阪に移り、豊臣家家臣の大谷吉継の娘(竹林院)を正妻に迎える。
小田原征伐では忍城攻めに参加。文禄・慶長の役では肥前名護屋城に在陣。
関ヶ原合戦時には父と共に西軍に属し、上田城に籠もって徳川秀忠の大群を迎え撃ち、足止めすることに成功する(第二次上田合戦)。
しかし合戦自体は東軍勝利となったため、紀伊国九度山に配流となる。
14年間の蟄居の後、慶長19(1614)年に九度山を脱出。大坂城に入る。
三の丸外に出城「真田丸」を築き、徳川勢を知り怒ぞける活躍をする(大坂冬の陣)。
慶長20年5月7日(1615年6月3日)、大坂夏の陣では、家康本陣に突撃を敢行。
本陣は総崩れとなるも、突撃税も消耗し尽くし、安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、西尾宗次討ち取られた。
なお現在「幸村」の名が広く知られているが、生前の史料でその名が使われている物はなく、諱(実名)は「信繁」が正しいとされる。