Bea-Kid'sグーデリアン物語。
《エピソード5》
<青の森・黒き森>
5-4
「出発」


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「胸くその悪い!」
 穏和な金毛狼族の若い長が、腫れ上がって閉じかかっている瞼を必死に見開きながら、吐き捨てた。
「汚らわしい虎族共! 卑劣漢! 下司(げす)! 下郎! 痴漢! こそ泥! 鬼畜!」
 そうして、思いつく限りの悪態を並べ立てる。
 柔らかな木漏れ日と、爽やかな風の中、まだ昨夜かけられた術から抜け出せない集落は、穏やかな朝を迎えていた。
 ある程度魔術に耐性を持っていた長と3名ほどの宮巫(みやみこ)達と、墓守の真似事を済ませたばかりの旅人達5人以外は、まだぐっすりと眠っている。
「卑怯者! 畜生! 生ゴミ! 痰壷! 肥溜め! そ、それから…」
 元より育ちの良い長は、汚い言葉のボキャブラリーが貧弱だった。最後の方は言い淀んで頭をかきむしり、らしくない発言は終わった。
「ご迷惑を、おかけしました。本当にすみません」
 ケティが頭を下げると、長は憤然として、
「迷惑をかけたのはあなた方ではない」
「そう思ってもらえると、有り難い」
 答えたアルバートも、やはり不機嫌だった。昨夜の「敗北」の事を、彼はまだ気に病んでいる。
「前々から、虎族は気に入らなかったのですよ。わがままで、卑怯で。…我ら『獣の子達』がレイラの民から迫害されているのも、彼奴らと黒毛狼の連中が無法を…」
 言いかけて、金毛狼の長は慌てて口をつぐんだ。
 目の前に黒髪の狼族の戦士がいるのを思い出したからだ。
「他部族との取引に応じない、というのが『無法』に当たるなら、黒毛族も間違いなく虎族と同類だ」
 アルバートは黒い髪と尖った狼の耳を、帽子の下に隠しながらつぶやいた。
 後ろの方でファルシオンが、
「黒毛狼族って、そんなに怖い部族なのか」
と、小声で言う。
 隣にいたベラドンナが、小さくうなづいた。
「頑固なのよね、彼ら。余っ程の事がないかぎり、他の部族に力を貸そうなんてしないわ」
「…やっぱり放浪者さんて、社交的な方なんだ…あれでも」
 ファルシオンの上目遣いな視野に、アルバートの耳が自分の方向へ動くのが写った。
 動いたのは耳だけだ。それなのに、何となくにらまれているような気がして、ファルシオンは引きつった笑顔を精一杯作った。
「何にせよ…」
 ケティも精一杯の笑顔を浮かべた。
「あたし達は、すぐにここを出ます。流れ虎族達は、どうしてもあたしを殺したいらしいから。あまり長く留まると、みなさんにご迷惑がかかりますし」
 ケティは「流れ虎族」という単語を強調した。…虎族全てが悪人な訳ではない。それは、猫族や狐族、あるいは熊族、狼族、レイラの民と呼ばれる人間族など、どんな人種であっても全てが善良な市民ばかりでないのと同様だ…と、彼女は思っているのだ。
「どうしても、と仰るのなら止めはしません。ですが、手助けはさせていただきますよ」
 若い長が胸を張って言うと、マーイが
「こっちには、この天才しゃーまんの春風・マーイさまがいるから、すけっ人とかはいらないわよ。ゴハンと、のみものを、とにかくたくさんちょうだい」
と、まあ、実に素直な要求をした。
「道は険しいですし、虎共は神出鬼没。あなた方のような…その、言っては悪いですが…子供だけで、ホーンテッド山まで無事にたどり着けますか?」
 金毛の長は不満そうだった。
「少なくとも、我々はあんたの一族よりは『大人』のつもりだ。…森の奥でのんびり暮らしてきたあんたよりは、実戦経験が豊富なんでね」
 目深にかぶった帽子の下から、アルバートの不機嫌声がする。
「…確かに…」
 金毛狼族の長は、控えていた宮巫の一人に、何か指図した。
 微笑んでいるのだが、寂しげな表情をしている。
「確かにあなた方の戦闘能力は、私達を凌駕しています。大体、私達は闘った事がない。…平和主義と言えば聞こえは良いが、ただ面倒を避けているだけ、ですからね」
 しばらくして、宮巫達は手頃なバックパック5つに小分けされた食料と、折り畳まれたテント、それに小さなカヤックを一艘、運んで来た。
「普段、グルテン湖は湿地のように見えます。水はほとんど、冷え固まったホーンテッド山の溶岩の下に埋没しているのです。流れ込んでいるステンリー川は、溶岩帯を抜けると再び地上に現れる、といった具合で…。ですがこの時期は、石の壁山脈の雪解け水で川の水量が増す。すると、溶岩の隙間から水が溢れ出て、湿地は浅く広い水たまりになる。…人の乗った船を浮かべて湖を渡るのは無理ですが、荷物を小舟にのせて曳航する事はできます」
 人が乗れば二人で満員になるであろう革張りの小舟は、見た目より随分と軽いらしい。長は片手で持ち上げて見せた。
「青毛猫族の史跡は、おそらくグルテンの湖のほとりです。歩きづらいという難を加算しても、あなた方なら丸1日で着くでしょう」
「そこまで知っていて、なぜ自分たちは湖や川を越えようと思わないんですか?」
 ファルシオンが不思議そうに訊ねる。
「不思議な湖の向こうに、なんだか判らない物がある…。ぼくだったら、それが何か確かめてやろうと思うけどなぁ」
「森から出られないのですよ」
 長は悲しそうに微笑んだ。
「この森の外に出る事ができない。仮にも牙を持ち爪を持つ、獣主の血族たる狼族でありながら、森の中の平穏に馴れきってしまった。たった一日の旅すら出来ぬほどにね」
「仮初めの平穏…か」
 黒髪の狼が言う。
 金髪の狼がうなずく。
「私達は森に生きる事を選んだ。森が滅するなら、私達も滅するでしょう」
「じゃ、森がなくならないよおに、森をまもればいいのよ」
 マーイは「ゴハン」の詰まったバックパックの一つに飛びつき、頬ずりしながら言った。

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