真田昌幸
天文16年(1547年)〜慶長16年6月4日(1611年7月13日)
官位:従五位下、安房守
真田幸隆の三男として生まれる。幼名「源五郎」。
天文22年(1553年)、7歳で武田氏への人質として甲斐へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わる。
永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤家の養子となり、「武藤喜兵衛」と称する。
このころ足軽大将に任じられた。
永禄7年(1564年)頃に遠江の国人領主だった尾藤頼忠(後の宇多頼忠)の娘を妻(山手殿/山之手殿)に迎える。
山之手殿との間に源三郎信幸、源二郎信繁が生まれる。
なお長年、山之手殿は京都の公家・菊亭晴季の娘とされてきたが、菊亭晴季の生年や昌幸の生年などを検証の結果から否定的見方がなされており、現在は頼忠の娘説、遠山右馬助の娘説など諸説がある。天正2年(1574年)に父・幸隆が死去。
真田家の家督は長兄・信綱が継ぐ。
天正3年(1575年)、長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、昌幸は真田姓に復して真田氏の家督を相続。
天正6年(1578年)、越後の上杉謙信死後に甲越同盟が成立すると、北条家の所領であった東上野の沼田領へ侵攻。沼田城や名胡桃城などを奪取。
武田氏滅亡後、織田信長の家臣となり、織田氏の重臣・滝川一益の与力武将となった。
ところが従属から僅か3ヶ月後の天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が横死。
色々あって、北条氏直に臣従。
でも(青い狸がらみで)色々あって北条と手切れ。
沼田割譲とかなんとか問題が発生したので、越後の上杉景勝に臣従することに。
天正11年(1583年)、東信濃に松尾城と城下町を築く。これが後の上田城と城下町上田である。
天正13年(1585年)、真田氏の制圧を狙った家康と氏直は鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7,000の兵力を昌幸の居城・上田城に、北条氏邦を沼田城に侵攻させた(第一次上田合戦)。
昌幸はわずか2,000の兵力で徳川軍に大勝。
これを契機に真田氏は、武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として認知されることとなる。
同年、次男の信繁(真田幸村)が上杉景勝の人質から、盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕し、昌幸は豊臣家に臣従する。
天正15年(1587年)に駿府で家康と会見。和睦が成立。
大坂で秀吉と謁見し名実ともに豊臣家臣とり、真田家は徳川氏の与力大名となった。
このとき家康は昌幸の嫡男・信幸(真田信之)を高く評価。重臣の本多忠勝の娘・稲姫(小松姫)を養女として信幸に娶らせた。
天正17年(1589年)、秀吉による沼田領問題の裁定が行われる。
沼田城を含む利根沼田の3分の2は後北条氏にのものとされ、真田氏の墓所があった名胡桃城を含む残り3分の1はそのまま真田領として安堵された。また、昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得た。
この頃昌幸は在京していたため、名胡桃城には鈴木重則が城代として入る。
同年11月、沼田城代となった北条の猪俣邦憲が、重則の家臣を寝返らせて名胡桃城を奪取する。重則は城を奪われた自分のふがいなさを恥じ、正覚寺で自害。(名胡桃事件)
この一件が惣無事令に違反したものとされて秀吉の怒りを買い、翌天正18年(1590年)に小田原征伐(小田原の役)が行われた。
後北条氏は滅亡。真田氏の沼田領が安堵され、名胡桃城は廃城となる。
文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際しては肥前名護屋城に在陣。
慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が没すると次第に家康が台頭。真田も徳川に従う。
慶長5年(1600年)7月、家康は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、昌幸もこれに従っている。
家康不在を突いて石田三成が挙兵すると、昌幸はどちらに付くか下野犬伏で家族会議(一寸違う)を開く。
このとき、三成と姻戚関係であり、また次男・信繁も大谷吉継の娘を妻に迎えていることから、共に西軍に与し、上田城へ引き返す事を決める。
嫡男・信幸は東軍に付くとして、親子兄弟は両軍に別れて戦うこととなる。(犬伏の別れ)
徳川家康率いる東軍の先発隊は東海道を進んだが、徳川秀忠率いる3万8000人の軍勢は中山道を進んで西に向かった。
秀忠は上田に着くと開城を求めるが、昌幸は秀忠の「本隊」を足止めしようと、時間稼ぎに徹する。
秀忠は激怒し、家臣等が「無視して西へ進軍」することを勧めるも、上田城を攻略することを決意した。
戦端が開かれると、昌幸は僅か3500の兵力で徳川軍を翻弄。徳川方は混乱に陥って敗北する。
秀忠は上田城に押さえの兵を残して先を急ぐが、道中の悪天候も災いして、遂に9月15日の関ヶ原本戦に遅参するという大失態を犯した。(第二次上田合戦)
その後、本戦での石田三成敗戦の報(関ヶ原の戦い:慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日))が届いてもすぐには降伏しなかった。
そのため、海津城(松代城)城主・森忠政が葛尾城に兵を置き、上田城を警戒していた。
そこへ、9月18日と23日の2度に渡って真田信繁(幸村)が夜討ちと朝駆けの攻撃を加えている。
しかしながらもはや西軍の敗北は明らかであり、同月中には徳川からの降伏・開城要請に応じた。
西軍に与した昌幸と信繁は、上田領没収の上死罪を命じられたが、嫡子信幸とその岳父である本多忠勝の助命嘆願によって赦免される。没収された所領は信幸に与えられた。
昌幸と信繁は高野山へ配流となったが、信繁が妻を同行させることを願ったため、女人禁制の高野山ではなく、九度山に流罪となった。
慶長5年(1600年)12月には、九度山で蟄居。
国許から援助を受けつつ、真田庵で暮らす。
慶長16年(1611年)に病没。享年65。