赤松小三郎
天保2年(1831年)4月4日
上田藩士芦田勘兵衛の次男として生まれる。初名・清次郎。
藩校の明倫堂(現在の上田市立第二中学校に位置)に学び、
和算家・竹内善吾の高弟・植村重遠(上田藩士)に師事する。
また、龍洞院住職・活文禅師の私塾「多聞庵」に学ぶ。(同門に佐久間象山など)
嘉永元年(1848年)
江戸に遊学。(18歳)
関流和算の大家・内田五観(弥太郎。号は宇宙堂)の瑪得瑪第加(マテマチカ)塾に入門。
和算・天文・測量・歴学・地理・蘭学を学ぶ。(内田五観は高野長英の弟子で、数学用語「微分」「積分」の名付け親とされている)
後に西洋兵学家・下曽根信敦(金三郎)について蘭学・砲術を学ぶ。
天保七年(1836年)or安政元年(1854)
上田藩士・赤松弘の養子となる。(22〜23歳)
安政2年(1855年)
勝海舟に随行して長崎海軍伝習所に行き、オランダ人より蘭学・英学・兵学・航海術、測量等を学ぶ。
横浜在住のイギリス騎兵士官より騎兵術、英語を学ぶ。
慶応元年(1865)7月
「英国式歩兵操典Field Exercises & Evolutions of Infantry(1862年版)」の翻訳書「英国歩兵練法」を出版する。
一説に「気ヲツケ」「左ムケー左」「カケ足ススメ」などの号令は、赤松が翻訳した用語から広まったとも云う。
※「右ヘ、準エ」や「右向ケ、右」などは、1858年の文献には既に用いられており、赤松が「初めて」翻訳したものではない。
慶応2年(1866)2月
京都に居を移し、私塾「宇宙堂」を開き、英国式兵学を教える。
門下生には、篠原国幹、東郷平八郎、野津道貫、上村彦之丞、中村半次郎など、薩摩・肥後・会津・越前・大垣などの各藩士から新選組の隊士までを含む。
同年8月
「方今世上形勢の儀に付乍恐奉申上候口上書」を幕府に提出
慶応3年(1867年)
薩摩藩の依頼により「英国歩兵練法」を改訂
同年5月
越前福井藩主・松平春嶽に対して「御改正之一二端奉申上候口上書」を提出する。
一説に、 坂本龍馬の「船中八策」は、この時小三郎が提出した口上書の内容を真似たものだとも言われる。
※ただし、「船中八策」自体の歴史的存在自体が疑われているが……。
同年9月2日
上田藩から再三にわたって帰国命令を受けて、帰藩を決意。
薩摩藩の門下生の有志が集まって、送別会が開かれる。
同年9月3日
京都・東洞院通にて白昼、桐野利秋(人斬り半次郎)・田代五郎右衛門ら薩摩藩士に暗殺された。
享年37。