真田隠岐守信尹
生没:1547年?−1632年
真田幸隆の四男。
同母兄に信綱、昌輝、昌幸がいる。
妻は武田四天王の一人で、鬼美濃と呼ばれた馬場美濃守信春の女
輩行名は源次郎。
長じて通称を市右衛門、諱を信昌と称する。
兄・昌幸と同じく幼年期から武田家への人質とされ、甲府に出仕。
武田信玄の命により甲斐の旧族である加津野昌世の養子となり、名門・加津野氏(表記は「和野」「鹿角」とも)の名跡を継いだ。
後、隠岐守の官途を自称、武田勝頼に近侍して槍奉行を務める。
元亀2年(1571年)1月、武田信玄が北条綱成の守る駿河深沢城を陥落させた際に、綱成が城内に放置した「黄八幡の旗指物」を奪い取るという功を上げる。
この指物は信玄により「武勇優れた北条左衛門大夫綱成にあやかるように」と下賜された。
天正10年(1582年)3月の武田家滅亡後に真田姓に復姓し、諱を「信尹」と改名する。
当初は北条氏に属したが、天正12年(1584年)から徳川家康に仕える。
昌幸が継いだ本家とは別行動を取るが、その状況下でも、昌幸に徳川方の情報を送り続けたとされる。
徳川家から5千石を与えられており、後に1万石に加増されたが、
「それだけの働きをしていない」
と称して牢人し、会津の蒲生氏郷に5000石で仕える。
氏郷死去に伴って起きた蒲生騒動(文禄4年/1595年)に伴い、蒲生家が減封(会津若松92万石→下野宇都宮12万石)されたこともあり、慶長3年(1598年)に再び徳川家康に帰参。甲斐で4000石を与えられる。
関ヶ原の戦い(慶長5年/1600年)、大坂の陣(慶長19年/1614年)で御使番・軍使として功績を挙げ、1200石を加増されて5200石になる。
一説に、大坂の陣のおりに甥に当たる真田信繁を「信濃で10万石(または40万石)」で徳川方へ誘ったが、一蹴されたとも。
また、討ち死にした信繁の首実検を行ったともされる。
なお、このとき「信繁かどうか判らない」と返答したという史料もある。
江戸時代には、幕臣として徳川家に仕え、寛永9年(1632年)5月4日に死去。享年86。
墓所は知行地であった山梨県北杜市長坂町長坂上条の龍岸寺。法名(戒名)は「徳盛院殿真田無済居士」
なお、生年は天文16年(1547年)とされているが、これは兄の真田昌幸と同年である。
二人が同母兄弟であることから、双子だったのではないかとも言われているが、定かではない。