幼名不明。輩行名は源三郎。官名は伊豆守。
諱は始め信幸、後に信之とするが、信幸表記も用いた。
真田昌幸の長男。
母は山手殿。
同母姉に村松殿(宝寿院)、弟に信繁。
異母弟妹として、昌親、信勝、女(真田信尹長男・真田幸政室)、女(家臣・鎌原重春室)、女(保科正光室・保科正之養母)、於菊(趙州院。滝川一積室)、清光院(妻木頼熊室)、於楽。
正室は、始め父の長兄・信綱女(清音院)、後に本多忠勝女(徳川家康養女)小松殿(稲姫)。
子に、信吉、信政、信重、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)。
幼年期は武田家の人質として過ごし、武田勝頼の嫡男・信勝と同時に元服。
信勝より、その祖父・信玄(晴信)の「信」を偏諱として受け「信幸」と名乗る。
武田家滅亡後、母の山手殿と共に上田の父の元へと逃れる。
真田家が織田家に従属すると、滝川一益配下に組み込まれる。
(この頃に同じく滝川麾下であった前田慶次郎と親しくなる)
本能寺の変・天正壬午の乱の後、真田家は沼田城を巡って北条氏と敵対。
信幸は八百の手勢で北条方五千が防衛する手子丸城を奪還。
信州小県を巡る争いでは父と共に計略を以て室賀氏を倒す。
沼田の領有を巡って対立していた徳川方が上田に攻め込むと、信幸は戸石城に着陣。
三百余の兵力で徳川本隊を横から攻め、壊走させた。(第一次上田合戦)
和睦の後、真田家は徳川家の与力大名とされる。このとき信幸を高評価した家康は駿府に出仕させ、本多忠勝の娘・小松を養女として娶せた。
小田原征伐後に沼田領は正式に真田帰属と確定し、信之が城主となる。
文禄3年(1594年)11月2日には従五位下伊豆守に叙任。後、従四位下に昇叙し、侍従を本官として伊豆守を兼任。
文禄・慶長の役(豊臣秀吉による朝鮮半島遠征)では肥前名護屋まで赴いているが、渡海はしなかった。
豊臣政権時代は特に石田三成と親しく、多くの文を交わしている。
関ヶ原合戦では西軍に付いた父と袂を分かち、徳川秀忠軍に属して第二次上田合戦に参加。ただし、戸石城を開城させ、その守備に当たったため、父・弟と直接戦うことはなかった。
関ヶ原が東軍勝利で終結すると、九度山配流となった父の所領を受け継ぎ、沼田と合わせて九万五千石を領有、上田藩主となる。
この頃から諱の表記が「信之」となるが、その後一時期「信幸」表記も用いた。
大阪の陣には病を理由として着陣せず、息子達を派遣した。
家康没後、松代藩に加増移封。
高齢となっていたが、三代将軍家光より「豆州は天下の飾り」と評され、九十歳を過ぎまで隠居が許されず、息子達に先立たれてのち、孫の幸道の後見として九十三歳まで藩政を執った。
健康法は湯治と自然観賞。
なお着用した鎧等から身長は六尺一寸(185cm)と推測される。