真田安房守昌幸天文16年(1547年)生まれ。
天文14年(1545年)誕生という説もある。
真田幸隆の三男。
兄に信綱、昌輝。弟に信尹、高勝、清鏡。
輩行は源五郎。
信之・信繁の父。正室は山手殿。
7歳で武田家への人質となり、信玄の奥近習衆に加わる。
信玄の母系・大井氏の支族である武藤家の養子となり、「武藤喜兵衛」を称する。
父幸隆没後、長篠の戦いで兄たちが討ち死にしたため、真田家に復し、家督相続。
信玄没後は勝頼に仕える。
天正8年(1580年)沼田城を開城させる。同年、勝頼嗣子・信勝の元服祝儀の名目で武官名「喜兵衛尉」を「安房守」に改める(私称)。
武田家滅亡後は、織田・上杉・北条・徳川・豊臣と所属を変えながら、領地家名の存続を計る。
天正11年(1583年)、上杉氏に対する千曲川領域を抑える城が必要となる。
徳川家康の命と言う形で川の北岸、沼、崖などの自然を要害とする地に松尾城(後の上田城)と、その周囲に城下町を築いた。
天正13(1585)年、沼田領の所属を巡り徳川家康と対立。
上田城にて二千の寡兵で七千余の徳川勢を破る(第一次上田合戦)。
沼田領問題は豊臣秀吉の仲裁で解決したが、北条方が真田領とされた名胡桃に侵攻。
これを切っ掛けに小田原征伐が行われることとなる。
なお、小田原征伐に際しては、石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに加わったと伝えられる。浅野長政らと持田口攻めを担当したが甲斐姫らに撃退された。(映画「のぼうの城」では直接の出番はないが、堰が切られたときに赤備えの一隊が濁流に呑まれる描写がある)
文禄元年(1592年)、文禄・慶長の役では肥前名護屋城に在陣。
渡海命令を与えられる事の無いまま、家康と共に文禄2年(1593年)8月29日に大坂に帰陣。
渡海しなかった代償として秀吉の隠居城である伏見城の普請役の負担を命じられた。
文禄3年(1594年)自称だった安房守に正式に任官される(従五位下安房守)。
関ヶ原合戦では東軍に付いた長男信之と袂を分かち、次男信繁と共に西軍に付く。
徳川秀忠率いる三万八千人の群を上田城に引きつけ、打ち破る(第二次上田合戦)。
関ヶ原本戦は東軍勝利となり、昌幸と信繁は九度山に流罪。
慶長16年(1611年)6月4日、九度山で病死した。
享年65(67説あり)。